直線上に配置


    トップ アイコントップページヘもどる
 '06年第2章  「シニョリア宮前の彫刻群 」      '07,1/12up 
         Le Statue davanti al Palazzo Signoria
  
 お好きな写真をクリックしてみてください。大きな写真をご覧いただけます。
1.Gianbologna作1594-98
 コジモ一世の騎馬像
2.Ammannati作1563-77
 海の神ネプチューン
3.海の神ネプチューン
  後姿
4.Gianbolognaの弟子達
 による1594-98海の精
5.彫刻群と一体感をもつ
 シニョリア宮正面
6.Donatello作
 1400年代中頃
 ライオン、マルゾッコのコピー
7.Donatello作
 ジュディッタとオロフェルネ
8.シニョリア宮正面玄関
9.Michelangelo作1501-04
 ダビデ像のコピー
10.Bandinelli作1500年代中期
 カシの木の下半身を持つ女性像
2.シニョリア宮殿前の彫刻群

誇らかにポーズをとるランツィの開廊の彫刻群は 芸術の都フィレンツェの精神の表象としてとらえることができる。
また別の見方をするなら、それ以前の300年に及ぶ町の歴史と人間性を尊ぶヒューマニズムの精神が
ここに凝縮されていると見ることも可能だ。

フィレンツェにおける 1200年代は貴族政治がゆらぎ始め 次第に商業のよる経済発展を収めた時期で、
ヨーロッパにおける盛んな商業活動を通じて 市民の力が次第に高まっていったのもこの頃だ。
1200年代後半の フィレンツェの経済的ね豊かさは精神の豊かさを求めるヒューマニズム運動へとつながっていった。
当時、フィレンツェで大学といえば ボローニャ大学であったが、大学に通うのは裕福な環境に恵まれた師弟に限られていた。
この地方の言語だったトスカーナ語を イタリアの国語にまで高めた三大桂冠詩人ダンテ・ペトラルカ・ボッカチオが現れたのも 
1200年から1350年の間だ。
政治的には イタリア半島中が 皇帝派(ギベリン派)と法王派(グエルファ派)とに分かれ、争いの絶えない時期であったため、
フィレンツェ市民は 市の平和と公正さを保つために、市民以外から適任者を選んで執政長官に任命する方法(ポデスタ制)を採用、市民の自分達の住む町を発展させようとする気運は次第に高まっていった。

1200年代のフィレンツェの経済発展の主な理由

フィレンツェの議会は 賢明にも町の主要産業として毛織物業に取り組むことに決定。
ミラノの郊外から羊毛産業の専門家であったウミリアーティ(敬虔・謙遜などの意味を持つ)派の修道士を呼び寄せ、
1251年から積極的に 羊毛産業導入に取り組む。
修道士達のためにアルノ川べりに立派なオンニ・サンティ教会を建て、教会付属の羊毛産業の洗毛、梳き毛、打毛、染毛、
製糸、機織などの各段階を学ぶための学校を設立し、修道士達に 特に手に職を持たない下層市民の技術指導に当たらせた。
ローマ人以前の先住民族であったエトルリア人からの伝統工芸である彫金と皮革製品の製造も 市の産業として見落とせない。

もう一つ、フィレンツェの経済発展に大きな影響を与えた部門として 銀行業の発展がある。
フィレンツェ市は1253年に金貨を発行、1300年頃には重さ3.54gのフィオリ−ノ金貨はヨーロッパで最も通用する通貨となった。
フィレンツェは 今でもユダヤ人の子孫を持つ家族が多く生活していることで明らかなように、
13世紀以降、両替商、高利貸し、銀行業を営むユダヤ系の市民活動があった。
キリスト教会は 労働に従事せずに暴利を生む高利貸を、キリスト教の精神に反すると信徒に禁じていたため、
銀行業は主にユダヤ系の人々が ヨーロッパ中に離散している彼らの連絡網を利用して活躍する場となっっていた。

経済の発展から ルネッサンス(文芸復興)への道のり

1300年代は 古代ギリシャ時代・ローマ時代の文学が、教養高いフィレンツェ市民によって読まれるようになった時代であり
その情熱は次第に高まりをみせ、人間中心主義(人文主義又は ヒューマニズム)の運動へと発展していった。

中世の間、古代の文化遺産は一部キリスト教会の中に受けつがれ、教会の教義にあわないものは、無視されてきたのだったが、
1300年代の後半に ペトラルカに代表される高い教養と前衛の精神にあふれた人々によって、次第にキリスト教以前の世界が存在していたことが 明らかになり、高く評価されるようになる。
古代ギリシャ・ローマ時代の精神的・文化的遺産を ヒューマニスト又はウマニストと呼ばれた人文主義者たちは 
ギリシャ語やラテン語の原本に頼りながら 情熱を持って研究した。 
この古典作品の研究による古代の文化の研究の成果として生まれたのが人文主義(ヒューマニズム)であり、
中世のキリスト教の神が中心であった時代から、人間が中心となり物事をとらえたり、考えたりする、
全く当時としては新しい考え方であった。
このように フィレンツェは 人文主義が誕生した土地あり、 この流れが ルネッサンス文化の原点となる。


1375年からは フィレンツェ共和国の書記官長として コルッチョ・サルターティ (Lino Coluccio Salutati, 1331-1406)らの
古典研究者である人文主義者に政権がゆだねられ、「鋭い知性と深い教養に基づく政治試案」が次々と実行されていった。
その一つが 古代アテネを手本とした積極的な芸術尊重主義で、貯えた富で芸術家を擁護して、芸術作品があふれる町つくりを目指した。
コルッチョ・サルターティ (Lino Coluccio Salutati, 1331-1406)は ペトラルカやボッカチオらと親交を結び、
ペトラルカが亡くなる時、古典の蔵書をサルターティに託している。 

1400年代になると 共和制は名ばかりとなり、1434年コジモ・イル・ヴェッキオが1年過ごした追放先のヴェネチアから戻ると、フィレンツェの政権は 事実上メディチ家の独裁政治となるが、
賢明にもメディチ家の人々は 共和政時代の芸術擁護政策を ほぼそのまま引継ぎ、ルネッサンス文化を大パトロンとして
支え続けた。 ただし、メディチ家は当然、自我自賛のプロパガンダとして 芸術を利用した点が、共和政時代と異なる。 
ちなみに メディチ家の政権掌握の土台を築いたコジモ・イル・ヴェッキオ(1500年代のコジモ一世と区別するためにイル・ヴェッキオ老翁と呼ばれる)も 積極的に古代の本を集める収集家で、ラテン語の読書の時間を大切にしていたと伝えられている。